福島県が生んだ世界的偉人である野口英世の母・シカは一九一八(大正七)年十一月十日亡くなった。スペイン風邪によるものであったことは知られている。当時は「感冒」ないし「流行性感冒」と呼ばれた。
この年の三月、米国で最初の患者が確認され瞬く間に日本を含め全世界に広がる。わずか八カ月で会津地方に及んだのだから、恐るべき伝染力だった。
時は、末期だが第一次世界大戦中。各国は情報統制して患者や死者を秘匿した。中立国であったスペインは情報統制していなかったため悲惨な実態が報じられ、 病名に「スペイン」と名が付いた。世界保健機構(WHO)のような国際機関もなかったから、患者や死者の正確なデータはない。全世界の死者数の推計は二千 万人から五千万人と幅があり、研究者によっては一億人が死亡したという説もある。
日本には内務省衛生局の調査結果が残されている。それによると、死者は約三十八万人に上った。罹患者は約二千三百万人で、これは当時の人口の四割以上の計算になる。学校、職場、陸海軍などでクラスター(感染者集団)が相次いで発生した。
感染した人の日記や記録によると、作家の永井荷風は突然四十度の熱が出た。高熱が連日続き、万一を考え遺書を書いたと記している。「平民宰相」と呼ばれ初めて政党内閣を樹立した原敬首相は夜中に「三十九度五分」の高熱に見舞われた。
皇太子だった昭和天皇にも及んだ。「昭和天皇実録」には「流行性感冒」と診断されたとあり、具体的な症状は記録されていないものの、熱発だったと思われる。
スペイン風邪はインフルエンザ・ウイルスによるものであることが後に分かるが、いきなり高熱を発するのが特徴であったようだ。この点は現在の新型コロナウイルスの症状とは違うように見える。当時は公衆衛生が未発達。コロナと同様、特効薬もワクチンもなかった。
当局は国民にうがい、手洗い、マスクの着用を呼び掛けたが、うがいは塩水。熱を冷ます氷すらない地域が多かった。夜間五人以上で出歩くことは禁止、興行など大勢の人が集まる場所への出入りを避けることも求めた。
今はマスクは防疫力が高いものができ、消毒液があらゆる場所の出入り口に設置されている。進歩しているように見えるが、基本はスペイン風邪時代と変わらない。
ただし、スペイン風邪のときと同じように、必ずしも防疫の決め手にはなってはいない。人同士の接触と飛沫防止は大事なことだが、感染拡大は人の移動による面が大きいとされる。そこに抜本的な策を講じることが基本だろう。
拡大するコロナ禍を百年前と比べると、教訓を学び生かしてこなかったことがよく分かる。
(国分俊英 元共同通信社編集局長、本宮市出身)